なんか 例えば。、 たくさんお金を稼ぎましたとか
何か大きな発明をしましたとか
人気者になりましたとか
そういう 分かりやすい結果があると
認められやすい というか、普通の人が見つけやすい 理解しやすい みたいなところがあって
私は 分かりやすい結果を出してないから
普通の人が私を見ても、よくわからないというか
気にも止めないというか
それで、私が言っている考え方とか、理論だとか、そういうものがあってるのかどうか さえ よくわからないというか
だから何かを教えるというか
例えば 意識レベルを高める方法みたいなのを教えていた場合、 それが万人に有効なのかどうか というか
やり方を教えれば、誰でもできるわけではないし
それは理論が間違ってなくても、起こりうることで
本質的には 私の話があってるか間違ってるかというのはあまり関係がないというか
それは、言葉は限定的なものしか表せないから
だから 全ての言葉、文章というものは
ある視点 、ある条件、ある 限定された状態で、正しかったり あるいは間違っていたり
だから、どんな言葉であっても、万人にとって有効な言葉はないし
明らかに間違ってるようなことを言ってる人でも、それが有効に働く人もいるし
ということで 、おそらく 真理 というものは
限定されたものではなくて、 向き みたいなもので
それは流れのような
だから、その流れに沿っていれば、今間違っていても、ちょっとずつ 修正されていく みたいな
私が例えば、ブログを書いたりして、それを後から読み返すと
よく間違ってるな とか 、これは 限定された視点だとか 、また違った角度から物事が見えるというか
だから文章を直そうとすれば、 いくらでも直せるし
終わりがないから
だからその 、流れみたいなのに乗ってるんじゃないかなと思って
それに、どこにフォーカスするかというか、どのお話を掘り下げるかみたいな
そういうのでも変わってくるし
だから、私の話が理解できないとか、 興味を持たれづらいのは当たり前だということは、わかるんだけど
ちょっと寂しい気持ちもあって
それはなぜ理解されないんだろう みたいな、他の情報発信者さんへの嫉妬みたいな感情も多少あるし
それで、みんなに分かりやすいように 内容を整えるとか、そういうことをすればいいんだけど
気持ち的にそれができないというか、 やりたくないことで
そういうことが結構多くて
社会的にはこれをやることが正解なんだけど、私はそれをやりたくないみたいな
だから 普通のルートをたどってないのはわかるんだけど
それがあってるのか 間違ってるのかすら 私には分からなくて
だけど、このルートを通ることが必然 みたいな、そういった感覚もあって
それは言語化できないような
だから私は今のところは 他人に理解されようとか
人気を得よう みたいな、 分かりやすく説明しようとか
そういった形で情報発信をしない スタイル
誰も見なくても構わないというようなスタイルで続けている感じです
私の深い性格のようなものが、常識にとらわれたくないような、 そんなところもあるし
だから、 たとえ私の生き方が間違ってたとしても、 それはそれでいい みたいな
そんな感覚があるみたいです
自分自身でさえ 道があってるのか、どうかわからないみたいな
だから、ほとんどの人より私の方が理解が深いのに
他人が私を見て 道があってるのかどうかわかるはずがないというか
これはちょっと失礼な言い方だけど、そんな理解になってしまう
