言語化した理解や情報を、非瞑想的瞑想によって整理して 統合して
それを今度は体を動かして
歩いたり走ったり運動したり 自然の風を浴びたり、そういう感覚体験を通じて
言葉 神経 筋肉の記憶にまで 降りて行き、 定着する
頭でつかんだ 概念が、体験として 刻印される
この時 知識は、ただの言葉から存在の一部になる
両方が揃うことで、より深いレベルでの統合が起きる
頭だけだと、概念は 鮮明になるけど 実感が薄い
体だけだと、体験があるけど、意味付けや整理ができない
頭と体だと、 理解 + 実感が重なって、深い 納得 安心 安定に至る
だから自分が動いたり、感覚を味わう時間は、言語で積み上げたものを
自分の肉体に定着させたり より深いレベルで意識に定着させることになりうる
これは必ずしも、 言語化した分野に対応する行動でなくても起こる
例えば 恋愛を言語化することで、それを実際に人と関わって、感情のやり取りを通じて
身体レベルで学ぶことは、 一番 ストレートで直接的な統合の仕方だけど
例えば ジョギングすることが、必ずしも 恋愛そのものに直結するわけではないけど
この場合、誰もいない場所で走らない限り
人と心を通わせるとか、距離を取るとかそういった要素は
身体的な別の活動の中で 象徴的に繰り返し練習できる
つまり 恋愛というテーマの基盤となる感覚を、別のルートで養うことになると思います
そのため 恋愛を深く 統合するなら、実際に恋愛を経験するのが最も直接的だけど
運動など他の体験でも、 間接的にその統合の下地を整えるような、 そういった 役割を持つかと思います
多分 だからこそ肉体があるのかな と それが一つの 理由なんじゃないかなと思いました
だから言語化と体験は補完し合う
