意識レベルが高くて 、IQ も高い場合、 自分 が いわゆる サムシンググレートとか呼ばれる
自己を超えた存在であることの理解があって、それを言語化 できたりするし
言語化することで、自分自身の統合 も進めやすかったりするし
意識レベルが高くて IQ が低い場合 、体感的にいろんなことが認識できたり、 深い概念がわかったりするけど
それを言語化することが難しかったり するし
逆に 意識レベルが低くて、 IQ が高い場合 、認識できる範囲が偏るので
例えば 計算や言語力は強いけど、 統合力だったり 、慈愛の性質が薄かったり
だからその場合は、科学者とか現実に見えるものだけを扱って、生きていくことになりやすいかな
1つの基準が、意識レベル 600 で 、ここを近くまで到達するには、最低限の知的基盤が必要であって
やっぱりいろんな深い概念とか、そういうことを言語化できるようでないと、ちょっとここに安定するのは難しいと思います
ということは、 意識レベル 600以上になると、一定水準以上の知的能力を持つ人になりやすい と言えると思います
私に関して言えば、深い概念を使ったり 色々言語化はできるし、いろんな分野の こと を結びつけて考えたりすることもできるんですけど
数学は全くできないですね
足し算、引き算、掛け算、割り算 ぐらいまでしか使わないし、 使えないですね
ま それで、600 近くになると、個人の特性 みたいなのはあるけど、それすらかなり薄まってくるから
だいたいその その人が表現することとかは、同じようなことになりやすいと思います
例えば 、スピリチュアルの 有名な本とかで、語られてる内容が、どれも 似通ったものになりやすいということだったり
おそらく慈愛だったり、透明さ だったり、 統合された洞察のような 、そういった特徴は 似通ってくるんだと思います
でもこの辺りだと、まだその個人の感覚とかがあるから
個性が出てきて、 それで同じ 600でも、 禅のような表現をする人とか
キリスト教的な表現とか 、あるいは科学的に語る人だったり、そういう風に別れてきてます
それがまあ 他の人が見た場合、 自分がそのとっつきやすい方向性から、 語る人を見つけることができるし
だから、いろんな方向から同じところに進むことができる、みたいなそういう感じだと思います
だからそれが、 多分 統合ということを、全てやってるんだと思うんですけど
インドの ヨガ だったり、 仙道や、仏教徒だったり イスラム教のスーフィーだったり、アメリカのインディアンだったり
文化的な影響によって、 捉え方だったり、進め方が変わるのが、面白いところでもあって
それで 意識レベルが高まると、認識できる範囲が広がったり 理解できるものが増える
個人的な世界が広がったり
人生がゲームだと言うのであれば、ゲームのルールが書き換わっていくという、言い方が言えるかなと思います
IQ は、そのゲームの新しいルールを理解して、 応用する 処理能力として機能していて
SQ だったり 意識レベルは、 そもそもゲームが何重にもステージが重なっていて、ずっと続いてるって事に気付ける能力 みたいな その感じかな
だんだん 意識レベルが高まってくると、能力が継ぎ足されてくるように思うかもしれないけど
実際は、いろんなものをそぎ落として 身軽になっていく
思い込み や執着などを、そぎ落としていくので 、存在の 本来の性質が現れてくるから
意識レベル 600 近くまで行くと、人間が 似たような人になってくる、みたいなそんなことが言えるかな と思います